SNSは、私たちの思考や感情が、ほとんど無加工のまま文字列として流れ出ていく場所である。本来なら声にして自己モデレーションをかけながら発するものが、文字に変換されることで制御を失い、果てしなく循環してしまう。その姿は、まるでメビウスの輪のようだ。
この場で問題になるのが「引用」である。学術論文では、引用は議論=戦争の一部として様式化されている。TwitterライクなUIに実装された引用ポストが軋轢を生むのも、引用という行為そのものが戦闘的な性質を帯びているからだ。リポスト直後に私見を添える投稿は、しばしば投稿主に牽制と受け取られる。そこで日本的な「マナー」として、フェイスワークを避けつつも言いたいことは言いたい、という独特の投稿スタイルが発達してきた。
このような軋轢を回避する表現形式のひとつが「エアリプ」である。シーンを共有していると信じる者同士のあいだで、直接言及せずに交わされるチャット的な応答。それは引用様式から逸脱しているため、さらに引用で論評することが難しくなる。エアリプとは、与えられた構造を少し組み替えて編み出されたレトリックなのである。
しかしSNSの根源的なアーキテクチャは、深いコミュニケーションを目指せば衝突を生み、浅くすれば退屈に陥るというジレンマを抱えている。「よく知らない人とは関わりたくない、知っている人とは関わりたい」という意志が働き、その曖昧な境界がしばしば「苦」を生む。分ければ停滞し、混ぜれば内ゲバになる。この難題を前にしても、私たちはSNSに居続ける。
なぜか。それは、機能や様式をわずかに組み替えることで、新しい表現や関わり方を生み出せるからである。リポストに私見を添えるスタイルや、エアリプという奇妙な迂回路は、その創造性の証だ。
そして、そうした試みの果てに立ち現れるのは、攻撃的でもなく、戦闘的でもなく、公共空間でほどよく調律された表現である。誰かを傷つけるのではなく、誰かと穏やかに共有されていくもの。そこに見えてくるのは、公共的にウェルチューニングされた「まろやかなミーム」という在り方なのかもしれない。