閉幕間際の大阪・関西万博に足を踏み入れた。入場権のみのチケットで、事前予習はあえて最小限に抑え、美術館に素手で向かうような姿勢で臨んだ。その結果、会場体験は単なるレジャーを超え、建築的記号の群れと身体的群衆行動が織りなす現象を観察する機会となった。
巨大建築の抽象性
まず立ち現れたのは、膨大な来場者の流れだった。無数の人々が前進し、列を形成し、座り込み、休息を取る。その群衆を支えるのは、大屋根やベンチ、自販機、巨大ファン付きポータブルクーラー、デザイン化されたトイレ、フードコートや水辺といった、都市的インフラの臨時的な複製物である。
中でも「大屋根リング」は、建築的に際立った存在だった。ディズニーリゾートをも凌ぐ広さを覆い、一日15万人規模の来場者を移動させ、待機させ、休ませる仕組みを提供しつつ、同時に会場そのものを象徴化するモニュメントとして機能していた。ここには「群衆を処理するための装置」と「場を記号化する装置」が一体化する計画性があり、建築が社会的機能と記号的意味を同時に担うという万博的宿命が端的に表れていた。
パビリオンの記号性
予約制のパビリオンには入場できず、トルクメニスタン館、北欧館、コモンズAといった限られた施設だけを体験するにとどまった。それ以外は建築外観を「記号」として観察する行為へと自然に収斂していった。
パビリオン群は、具体的な建築物であるにもかかわらず、高度な抽象性を帯びていた。その印象は、ポストモダン美術館の外観や、キリコの形而上絵画、あるいは抽象画に接したときの感覚に近い。具象物としての建物が、その大きさゆえに逆説的に「観念的対象」として迫ってくる。この構造こそ、過去の万博から連続する「建築の記号化」という伝統であると理解できる。
特筆すべきは、国名表示のゴシック体日本語である。海外パビリオンを日本語が媒介するという配置は、言語の置換を通じて記号性を強化していた。そこに漂うのは、ピクサー的CGアニメに登場する「整いすぎた日本語フォント」の人工感である。いわゆる「謎日本」とは異なるが、異質な文化を日本語の外皮によってパッケージ化する点で、同系統の不気味さを宿している。
マスコットの希薄さと微細な空間
会場シンボル「ミャクミャク」は意外なほどに希薄だった。像が2箇所、みやげ物コーナーの奥に(長蛇の列で実見できなかったが)大量展開されているらしいこと、そしてわずかにペイントやマンホールに散見される程度。来場者の熱気に比べると、記号的な力は控えめである。
むしろ印象的だったのは、石垣用の小型の石を並べ、紐を通して屋根としたささやかなエリアだ。会場全体のスケールに比すれば産毛のような存在にすぎないが、この微細な空間が逆に記号的強度を帯びていた。巨大建築群の抽象性の中で、素材感と手仕事の痕跡が露出していたからだ。
身体と記号のせめぎ合い
結果として見えてきたのは、万博を「巨大な記号の集合体」として捉える視点である。形而上学的なイメージを体現する建築群と、実際に列をなし、休息し、飲食し、探索する身体的な群衆。その両者が絶えず干渉し合うことによって、万博は成立している。
そこには、建築と人間の「せめぎ合い」が露骨に可視化される。理想化されたモニュメントが、人間の身体的要請に押されてはじめて意味を持ち、また人間の行動そのものが建築の象徴性を補強している。万博とはこの相互作用の舞台であり、記号論的に見れば「記号と身体の社会的実験場」とすら言えるだろう。