Discoexistence(異見共存)

──合わない相手とも同じクラスタで生き抜く力

SNSや職場、学校など、私たちは日常的に「合わない人」と同じ空間にいることがあります。そんな状況でもうまくやっていく力を、私は Discoexistence(ディスコエグジステンス/異見共存) と呼んでいます。

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Discoexistence(ディスコエグジスタンス)discord(不和)と coexistence(共存)のブレンド語であり、緊張や不一致の中でも適切な距離を保ちながら共に生きる力を意味する。

Discoexistenceとは何か

Discoexistenceは単なる接点の有無ではなく、合わない相手とも同じクラスタで心理的に適切な距離を保ちながら共存する力です。

  • 合わない人とも生き延びる力

  • イヤなやつも含めてクラスタ内でやっていける力

  • 排除や戦争ではなく、互いの存在を認めつつ距離を取る共存感覚

例えば、SNSでの相互フォロー関係が変化したときにも起こりやすい現象です。Aさん、Bさん、Cさんが相互フォローだったのに、AさんとCさんがアンフォロー関係になった場合など、直接的な関係が途絶えても間接的な接点が残ることで心理的距離の取り方が試されます。離婚した元配偶者と子どもを介して接点が断絶できない状況も同様です。

SNSにおけるDiscoexistence

SNSでは、心理的距離や内集団/外集団の可視性、発言ルーティンなども含めた対人認知のデザインが重要です。これまで私は様々なソーシャル・ネットワークを利用してきましたが、そこでの観察で得た知見として、仲がよくない人や違和感のある人でも、ミュートやブロックではなく、存在を認識しつつ交流できない仕組みが必要ではないかと思うようになりました。たとえば、TwitterライクなUIを持つBluesky Socialではまだ以下の機能実装が十分ではないと考えます。

  • 接し方のアーキテクチャ:近いけど仲がよくない人との心理的距離の取り方

  • 第3のボタン:ミュート・ブロックに代わる、合わない人の投稿を無意味化する機能

  • 公共圏での共存:小グループに閉じこもらず、見えていても交流できない形式

これは、例えばゲーム『ワールド・オブ・ウォークラフト』のアライアンスとホードの関係に似ています。対峙はできるが、チャットすると文字が無意味化される──そんな形で「不和を許容する場の設計」が可能です。

Discoexistenceの意義

SNSや物理空間での「苦」の多くは、利用者の増加による多様性と衝突から生まれます。エコーチェンバーや愚痴ループが発生しやすい現代において、Discoexistenceは次のような意味を持ちます。

  • 小規模な場では、空気や景気を活かした自然な交流が可能

  • 多様性を認めつつ、衝突を最小化できる

  • 合わない人とも共存できることで、コミュニティの成熟が促される

SNS設計においても、ユーザーが意図的に干渉するのではなく、場のアフォーダンスを活かして自然に交流できる仕組みを作ることが鍵です。


Discoexistenceは、単なる我慢や表面的な友好ではありません。合わない人がいても心理的距離を保ち、同じクラスタで生き抜く力。それを身につけることが、SNSでもリアルでも、健全なコミュニティ生活の秘訣となるのです。


まとめ

“Some people are just not your vibe, but that’s discoexistence.” 「合わない人もいるけど、それもディスコエグジステンス」
“Mastering discoexistence is the key to thriving in any community.” 「どんなコミュニティでも生き抜く鍵は、衝突を含めた共存力だ」

追記:

ソーシャル・ネットワークを使う人には二つの姿勢がある。 ひとつは、そこにDiscexistence(存在の分散や消耗)があることを受け入れ、巻き込まれるままに動く。 もうひとつは、そうした要素を厭い距離を置き、自分にとって居心地のよい、自分の「いつも通り」や理想の状態を維持することに勤しむ。

身体性が希薄で自他の境界が曖昧なネット空間では、後者の戦略──自分にとって居心地のよい状態を守る──は、一方的で非対称的ではあるものの、妥当な戦略と言える。 ソーシャル・グラフを拡大するために、すべての人に配慮し続けるアプローチでは、かえって「俺の頭の中に入ってくるな」という状況を招きかねない。

しかし、そのように調整された空間においてさえ、Discoexistenceが入り込むスキマはあり得る。 その際の痛みは、普段からDiscoexistenceに身を投じている人よりも大きいかもしれない。

身体性が希薄なソーシャル・ネットワークにおける「自己存在の維持」と、それに伴って生じるDiscoexistenceによる心理的負荷は、社会的な生きものである人間に課せられた二日酔いのアルデヒドのようなものだ。 私たちはそれを厭いながらも、酒をやめられない。