Threadsで「家族が無言の帰宅となった」という投稿に対して、「無事に帰ってきてよかったですね。無言で帰ってくるのは気まずいかもしれませんが、まずは迎えてあげてください」という返事をした人がいました。 その返信者はどうやら「無言の帰宅」という定型表現を知らなかったようで、そこからネット民の言語規範意識が爆発。揶揄や批判の的になったのです。
この一件から見えてくるのは、私たちが思う以上に「言葉の伝統」や「慣用句」が脆い基盤の上に立っている、ということです。
慣用句は「スタンダード」と「クラシック」の違い?
「無言の帰宅」という表現は、国立国語研究所のコーパスを検索してもほとんどヒットしません。2000年代に2件だけ。青空文庫にも登場せず、新聞データベースでようやく1969年に遡れる程度。 つまりこれは、一般的な語彙というよりも、かなり特殊なレジスターで使われている表現だと考えられます。接する機会がなければ、そもそも“ひとまとまりの表現”として知らないのは当然でしょう。
こうした「手垢のついた言い回し」とことわざ・慣用句の違いは、ちょうど「スタンダード」と「クラシック」の違いに似ています。クラシックは保存され演奏され続けるが、スタンダードは時代ごとにアレンジされ、いつの間にか解釈が変わってしまうのです。
意味の分岐と「渋滞の先頭」
ことばの意味が変化するとき、それは一気に切り替わるわけではありません。渋滞の先頭がじわじわ動き出すように、「だいたいこのあたりから新しい用法が広がったかな」という“幅”として観察されるものです。
「敷居が高い」や「流れに棹さす」といった慣用句も、もとの文脈が失われると同時代的な知識で再解釈され、意味が分岐していきました。今回の「無言の帰宅」もまた、その渋滞のひとコマなのかもしれません。
ネット言論の保守性
面白いのは、ネット言論がこうした「言葉の分岐」に直面したときの反応です。 ネットは自由で新しい表現を生み出す場である一方、意外にも言葉については保守的です。慣用句を誤用した人に対し、「知らないのか」と嘲笑したり、上から目線で訂正したりする光景は珍しくありません。
言葉は変化するもの、とはよく言われます。しかしその変化の過程で、むしろ規範意識が強烈に発動する場がネットなのです。
(参考)『新敬語「マジヤバいっす」』(中村桃子、白澤社、2020年)
「聖性」の可視化
人間は「格式あるもの」や「聖なるもの」に弱いものです。かつて行われた「いわれねつ造実験」では、商店街にいかにも古そうな祠を設置すると、人々が自然に拝み始めたといいます。
言葉においても同じことが起きます。慣用句や定型表現は、まるで神聖なもののように扱われる。そして、それが毀損されたと感じたとき、まるで自分の面子が傷つけられたかのように攻撃する人が出てくる。 オンラインではその振る舞いが可視化され、今回のような「炎上」に至るのです。
おわりに
「無言の帰宅」という表現をめぐる小さな騒動は、言葉の慣習や規範、そしてそれをめぐる人々の心理を照らし出しました。
言葉は歴史とともに変わり、分岐し、そして時に衝突を引き起こします。 私たちが何気なく「当たり前」と思っている表現も、案外と新しく、狭い範囲にしか通じないものかもしれません。
今回の出来事は、「言葉の聖性」にすがる自分自身の姿を、鏡のように映し出しているのではないでしょうか。