「よろしくお願いします」「素敵ですね」──そんな当たり障りのない挨拶だけが永遠に流れ続けるSNSを想像してみてほしい。誰も本音を言わず、表面的な好意だけが交わされる空間。それは心地よい理想郷だろうか? それとも息が詰まるディストピアだろうか?

Everspringという思考実験

Everspring(永遠の春)──それは、サービスが始まったばかりの初々しい空気が永遠に続くSNSの概念だ。入学式の緊張感と礼儀正しさが終わることなく続く教室のように、本当の関係性が始まる前の段階で時間が止まってしまった空間。

この思考実験は、私たちに重要な問いを投げかける。なぜ現実のSNSは、このような「純粋な親和性」だけの空間にならないのだろうか?

摩擦こそがSNSを駆動させる

答えは明快だ。対立と摩擦こそが、SNSを生きた空間にしているのだ。

匿名性の高い自己呈示空間であるはずのSNSが、Everspringのような表面的な親和だけの世界にならないのは、論争や炎上がエンゲージメントを生むからだ。匿名性は攻撃性を解放し、差異を表明したいという欲求が意見の衝突を生む。親和だけでは、人は留まらない。Everspringは停滞した死の世界なのだ。実際のSNSは、摩擦によって生きている。

商業化された親和性──InstagramとThreadsの停滞

では、InstagramやThreadsのような、小商い広告に溢れたSNSはどうだろうか?

これはEverspringとは別種の停滞だ。「素敵ですね」「応援してます」といった擬似的な親和性は、相互宣伝のための営業挨拶に過ぎない。商売上、誰も本音の批判をしない。自己呈示は「丁寧な暮らし」のようなテンプレートに収束し、差異ではなく同質性の競争になる。買う/買わないという二択だけがあり、議論は生まれない。

これは、Everspringの親和性を商業的に固定化した、摩擦なき市場としての停滞と言える。

第三の凪──Blueskyの「ゆるい存在」

しかし、Blueskyには別の様相が見られる。

ご飯の写真、旅行の記録、ペットの姿、共有する価値があるとも言えないような愚痴。営業的意図はなく、対立も生まない柔らかさ。これはEverspringの表面的挨拶とも、小商いの営業的親和とも異なる。

ここにあるのは、意味の希薄さを共有する文化だ。深い意味はないが、温度はある。「私はここにいる」という存在確認。対立も商売もない、ゆるい存在の共有空間。それは第三の凪──摩擦の戦場でも、商業的社交場でもない、まろやかなミームが流通する場所だ。

特に興味深いのは、「ブルスコ」と呼ばれる日本の古参Blueskyクラスターにおいて、この第三の凪が実際に機能していることだ。招待制時代から参加していた初期ユーザーたちのコミュニティは、Everspringの表面的礼儀正しさでもなく、Xのような対立の激しさでもなく、Instagramのような商業的な相互承認でもない。そこには、日常の些細な出来事を共有し、ゆるやかに反応し合う、独特の文化圏が形成されている。意味の濃度は薄いが、関係性の温度は確かに存在する空間──それがブルスコだ。

結論:SNSの三つの相

この思考実験から見えてくるのは、SNSの三つの相だ。

  • 摩擦の空間:対立と論争がエンゲージメントを生む、動的だが疲弊する世界

  • 商業的親和の空間:営業的挨拶が固定化された、停滞した市場

  • ゆるい存在の空間:意味は薄いが温度がある、凪いだ共有の場

Everspringという架空のSNSは実現しない。なぜなら、純粋な親和性だけでは人間は満足できないからだ。私たちは摩擦を求め、商売を求め、あるいは何の意味もない「ゆるさ」を求める。完璧に礼儀正しい春は、実は誰も望んでいない悪夢なのかもしれない。

しかし、ブルスコのような第三の凪は、SNS疲れした現代人にとって、ひとつの避難所となりうる。そこは春が永遠に続く悪夢ではなく、季節が緩やかに流れる、居心地の良い場所なのだ。