SNS上で誰かが存在するとは、どういうことだろう。
物理空間なら、そこにいるだけで「ある」。だがSNSでは、他者の応答——いいね、リプライ、引用——がなければ、アカウントはデータとして記録されているだけで、社会的な場には現前していない。投稿が誰にも読まれず、反応もされないなら、それは「書いたが、誰もいない部屋で独り言を言った」のと何が違うのか。
私たちは日常で、他者との相互作用を通じて自己を確認している。会話、視線、肯定的なフィードバック。しかし現代では、物理的孤立やリモート化で、そうした機会が減っている。自己の輪郭がぼやけ、「私は本当にここにいるのか?」という不安が生まれる。
SNS投稿は、その不安への応答だ。「今日こう思った」と書くことで、漠然とした感情が輪郭を持つ。タイムラインは過去の自分を可視化し、「私は変化しつつも同一の存在だ」という物語を支える。そして何より、投稿は「誰かが見てくれるかもしれない」という潜在的な他者を前提とする。その期待が、自己の実在感を一時的に支える。
だが、応答がないとき、この回復は失敗する。「私はここにいる」という呼びかけに、沈黙が返ってくる。自己は社会的な承認を得られず、宙吊りになる。しかもSNSでは、存在の記録が残るがゆえに、無視の事実が明確化される。「いいね0」は、単に反応がないのではなく、「多くの人が見たが、誰も反応しなかった」という積極的な否認として解釈されうる。
だから、承認を得るために、私たちは差異化を図る。膨大な投稿が流れ続ける空間では、「ただ存在する」だけでは埋もれてしまう。他人と違う意見、ニッチな趣味、過激な主張、独自のキャラクター。差異を明示することで、注目を集め、「あの変わった人」として記憶され、社会的な位置を獲得する。
しかし、ここに罠がある。多くの人が「他人と違うこと」を目指すと、差異化の戦略自体が類型化する。「逆張り」というジャンルが成立し、「普通じゃない私」がテンプレートになる。さらに、承認を得るために差異を強調し続けると、そのキャラクターが固定化され、本来の複雑な自己が単一の差異に還元される。差異化のために選んだ属性が、自己を囲い込む檻になる。
そして差異を示しても応答がない場合、それは「差異として認識されなかった」という二重の否定だ。自己の核心だと思っていた独自性が、他者にとって無意味だった。存在の独自性そのものの否認として経験される。
これは仏教で言う「渇愛」の構造だ。承認を得ても、その充足感はすぐに消え、次の投稿への欲求が生まれる。応答がないと「次こそは」と投稿を続ける。承認の不確実性が、行動を強化する。投稿履歴は「業」として蓄積され、過去の投稿が現在の自己を拘束する。差異化の業が、差異化の輪廻を生む。終わりなき投稿サイクル。
根本にあるのは「承認されれば自己が安定する」という幻想だ。しかし実際には、承認への依存が自己をより脆弱にしている。存在の不安は、SNS承認では癒えない。むしろ承認を求めることが、リアルな関係構築を妨げ、孤立を深める。
この洞察を投稿すること自体が、自己言及的なパラドックスだ。「SNSは渇愛である」と書いた瞬間、私はメタ認知的な差異化によって承認を求めている。では、Blueskyを辞めるしか解脱はないのか?
そうではない。物理的な離脱は必ずしも解脱ではない。SNSを辞めても「承認されたい」という構造が残れば、別の場所で再現される。逆に、SNSを使いながら執着を手放すことは可能だ。
一つの道は、インタラクションを期待せずに書きたいことを書き続けることだ。
応答を期待しない = 承認への執着を手放す。しかし書く行為自体は続ける。欲望の対象を変えずに、欲望の構造を変える。言語化による自己の明瞭化は保持されながら、承認経済からは離脱する。
投稿は公開空間に置かれる。誰かが読むかもしれない可能性は残るが、期待はしない。あってもなくてもいい。孤独と開放の中間。私的な思考を公共空間に置くが、承認は目的化しない。
「バズりそうなこと」ではなく「自分が記録したいこと」を書く。差異化のための過激化は不要になる。「誰かに刺さるか?」ではなく「自分にとって大事か?」が基準になる。投稿内容が本来の自己に近づく。
逆説的だが、期待を手放した投稿の方が、時に深い応答を得ることがある。承認欲求が透けると読者は距離を取るが、純粋に書きたいことを書くと真正性が伝わる。ただし、これを狙うと、また承認欲求に戻る。あくまで副産物として受け取る。
完全に期待を消すのは難しい。投稿後、ふと「もしかして…」と思う瞬間は来る。応答がないと、わずかに落胆する自分がいる。それでいい。期待は生まれてもいい。ただ、それに囚われない。欲望が湧くのは自然で、それを追いかけ続けるのが問題なのだ。
「応答がないアカウントは存在しないのでは?」という問いへの、一つの答えがここにある。社会的現前を諦めることで、逆説的に実存的な存在が回復する。他者の承認で担保される存在から、自己が自己であることで存在する領域へ。他者の眼差しに規定されない自己の場所を、取り戻す。
解脱は「到達すべき状態」ではなく、執着から自由であり続けるプロセスだ。完璧な無執着ではなく、執着に気づき続ける実践。
私は今日も、何かを書く。誰が読むかは分からない。それでいい。