「思想が強い」という言い回しを見かけるたび、少し引っかかるものがある。本来なら「政治思想」「イデオロギー」と限定すべきところを、あえて裸の「思想」だけで済ませている。この省略は、単なる簡略化なのだろうか?

そうではない気がする。むしろ、限定修飾を剥ぎ取ることで、特定のコノテーションを纏わせている。中立的であるはずの語を、文脈を削ることで揶揄の道具に変えている。

「思想が強い」と言えば、そこには「過剰に思想的なもの」という含みが立ち上がる。「そこに思想を持ち込むのか」という距離感の表明だ。

では、なぜこの戦略が機能するのか。

通常、私たちは使用する文脈で抽象語の意味を確定させる。ところがこれらの表現では、文脈を剥奪することで逆に特定の文脈を喚起している。「思想」という語が単独で現れると、「思想を持ち込むべきでない場面に持ち込んでいる」という前提が滲む。無標化が、特定の評価を密輸している。

しかも、この婉曲化には二重の機能がある。

一つは、直接的な政治論争の回避。「政治思想が強い」「イデオロギー色が濃い」と言えば、それ自体が政治的な発言になってしまう。「思想が強い」という形式を使えば、ある種の距離感を表明しながら、直接対決は避けられる。

もう一つは、仲間の選別だ。この表現が機能するのは、暗黙の前提を共有している者同士の間だけである。「思想」と聞いて何を指しているか分かる人。その場に「思想を持ち込むこと」への違和感を共有できる人。「思想が強い」が批判的ニュアンスを持つと理解できる人。コノテーションの共有が、明示的な主張なしに境界線を引く。

興味深いのは、この婉曲化がより強い含意を生むという逆説だ。

「政治的だ」と言えば、それは記述的な指摘にすぎない。しかし「思想が強い」と言うと、そこには「本来そうあるべきでない」という規範的評価、「過剰である」という程度の含意、「場違いである」という文脈の違反が一度に立ち上がる。無標化することで、評価の密度が上がっている。

そもそも「思想が強い」という表現が成立するのは、「ここは思想を持ち込まない領域だ」という前提があるからではないか。その前提自体が争点なのだとしたら、この表現は単なるスラングではなく、メタレベルの論争の武器として機能していることになる。

「ここは政治を持ち込むべきでない」という主張は、それ自体が政治的主張だ。しかし無標化によって、その政治性が見えにくくなる。

結局、この種の表現は三つの機能を同時に果たしている。直接対決を避けること。内輪の連帯を確認すること。そして、何が「普通」で何が「強い」かという議論の土俵を、あらかじめ設定すること。

無標化は、単純化ではない。むしろ複雑な社会的機能を一語に圧縮する技法だ。その圧縮の仕方が、何を可視化し、何を不可視化するのか。「思想が強い」という表現の背後には、そういう問いが横たわっている気がする。