A quiet afternoon in a traditional kissaten coffee shop on the second floor of an old shopping arcade in Kyoto. The interior has dark wooden panels, cream-colored walls with slight yellowing from decades of cigarette smoke, and frosted glass windows letting in soft diffused light.
An elderly Japanese man in his late seventies sits alone at a small table by the window. He was a university professor before retirement. His face carries the quiet dignity of someone who has spent a lifetime with books. He wears a simple cardigan over a collared shirt, reading glasses perched on his nose.
He is deeply absorbed in a thick English hardcover book, something academic and dense, perhaps philosophy or linguistics. A white ceramic coffee cup sits beside him, half-empty. His weathered hands hold the book with familiar ease.
The scene is captured as if by a film camera, natural lighting, shallow depth of field focusing on the man while the kissaten interior softens into warm bokeh behind him. Photorealistic, indistinguishable from an actual photograph.

わたしはGeminiで写真と見分けがつかない画像が生成できることを発見し、これを極めようとしている。商店街の2階にある純喫茶でコーヒーを飲みながら読書をしているおじいさん。地下世界に広がるBlueskyの風景。眺めていて飽きない。

ただ、生成AIによるリアルな人物写真は社会的に受け入れられにくい。なぜか。「個体の同一性」から考えてみたい。

固有名詞と普通名詞——参照のベクトルが逆転する

AIに「トランプとバイデンが溶岩リングでボクシングする画像を作って」と頼めば、それは確かにトランプでありバイデンだとわかる。実在の二人を指している。

では「商店街の純喫茶で読書しているおじいさん」を生成したとき、画面に現れた彼は誰なのか。

現実の喫茶店にいるとしよう。目の前で読書している人を「おじいさんが読書している」と言うとき、それは実在の誰かを指している。山田太郎さんかもしれないし、佐藤一郎さんかもしれない。特定の誰かがいて、その人を「おじいさん」というカテゴリーで記述している。ベクトルは「個体からカテゴリーへ」だ。

AI生成は逆だ。「おじいさん」というカテゴリーだけが与えられ、そこから個体的な特徴を持つ何かが現れる。ベクトルは「カテゴリーから個体へ」。誰なのかと問われても、答えられない。

三種類の個体

整理すると、個体には三種類ある。

実在個体:現実世界に存在する、または存在した人物。山田太郎さん、あなたの祖父、歴史上の人物。物理空間に根を持ち、同一性がある。

虚構個体:フィクションの登場人物。ハムレット、ドラえもん、フリーレン。実在しないが、名前と物語(*1)によって固定され、「あのキャラ」として社会的に伝達できる。同一性がある。

潜在個体:AI生成物。学習データという潜在空間から、プロンプトによってすくい取られた存在。個体的な顔と表情を持つが、誰でもない。同一性がない。

潜在個体には同一性を蓄積する仕組みがない

虚構個体も、最初は一回的だった。ハムレットが同一性を持つのは、シェイクスピアが名前を与え、物語を与え、反復的に参照されてきたからだ。初出の時点では潜在個体と変わらない。

つまり同一性とは、最初から備わっているものではない。固定と反復によって蓄積されるものだ。

潜在個体にはこの蓄積の仕組みがない。技術が発展すれば、同一人物に「見える」画像を繰り返し生成できるようになるかもしれない。しかしそれでも、生成のたびに潜在空間からサンプリングしているという構造は変わらない。一回的な生成の繰り返しだ。

虚構個体の同一性は、固有名とその反復的な記述によって伝達される。作者が心的表象として「このキャラクター」を保持し、言葉で固定し、読者がそれを受け取る。生成AIにはこの回路がない。潜在空間には「この人」という表象がなく、あるのは特徴量の分布だけだ。似た出力を何度出しても、それは「同じ人の別の姿」ではなく「似た別人」でしかない。

社会が拒否しているのは何か

生成AIによるリアルな人物画像が不気味なのは、「AIが作ったから」ではない。

同一性の回路がないまま、実在個体のふりをするからだ。

存在しない人間の顔で信頼を得ようとする。人生の蓄積があるかのように見せる。しかしその顔の持ち主は、どこにもいない。誰でもない誰かが、誰かのように振る舞っている。この構造が不気味なのだ。

通りすがりの一期一会の相手が、ふとAI生成の潜在個体に見えることがある。それは錯覚ではない。実在個体も、見知らぬ他人である限り、潜在個体と同じ「同一性なき個体」として現れるからだ。わたしたちは普段、同一性の不在に囲まれて生きている。ただ、それが人工的に生成されると、不在が際立つ。

潜在個体は虚構個体になれるか

逆に言えば、潜在個体も固定と反復の回路を得れば、虚構個体に移行できる。

AI生成キャラクターがVTuberとして活動し、ファンがつき、物語が蓄積される。そうなれば「あの人」として伝達可能になる。同一性が生まれる。

潜在個体であること自体が問題なのではない。同一性を蓄積する回路がないまま、実在/虚構個体として流通することが問題なのだ。

わたしが生成したおじいさんは、誰でもない。しかしわたしは彼を眺めるのが好きだ。彼がどこにもいないことを知った上で、その一回性を楽しんでいる。それは、潜在個体との正直な付き合い方の一つだと思う。


*1) ここで「物語」と呼んでいるのは文字通りのストーリーだけではない。履歴・因果関係・由来も含む。作者が設定することもあれば、読み手たちの間で間主観的に生み出されていくこともある。虚構個体はこの蓄積を社会的に伝達できる。潜在個体にはその回路がない。

追記)

心理学にエンパシーという概念がある。自分と他者を分けた上で、相手の気持ちに共感する能力だ。認知心理学のプロジェクション(投射)も関わる。

図像を見るとき、人は自分の中にある過去の経験や一般常識を投射する。社会的な関係性を背景にしつつも、孤独に、自分の側から図像に「物語」を「与える」ことができる。

潜在個体を受容できるかどうかは、ここにかかっている。同一性の回路がなくても、見る側が物語を与えられるなら、その図像は意味を持つ。わたしが生成したおじいさんを眺めるのが好きなのは、そういうことだ。