バイブコーディングという割り切り
2025年2月、OpenAI共同創業者のアンドレイ・カルパシーがX上で「バイブコーディング」という言葉を生み出した。
https://x.com/karpathy/status/1886192184808149383
There's a new kind of coding I call "vibe coding", where you fully give in to the vibes, embrace exponentials, and forget that the code even exists. It's possible because the LLMs (e.g. Cursor Composer w Sonnet) are getting too good. Also I just talk to Composer with SuperWhisper so I barely even touch the keyboard. I ask for the dumbest things like "decrease the padding on the sidebar by half" because I'm too lazy to find it. I "Accept All" always, I don't read the diffs anymore. When I get error messages I just copy paste them in with no comment, usually that fixes it. The code grows beyond my usual comprehension, I'd have to really read through it for a while. Sometimes the LLMs can't fix a bug so I just work around it or ask for random changes until it goes away. It's not too bad for throwaway weekend projects, but still quite amusing. I'm building a project or webapp, but it's not really coding - I just see stuff, say stuff, run stuff, and copy paste stuff, and it mostly works.
概要を訳すと——「バイブコーディング」と呼んでいる新しいコーディングがある。完全にVibeに身を任せ、コードの存在すら忘れる。LLMが優秀になったから可能になった。音声入力でAIに話しかけ、キーボードにはほとんど触らない。生成されたコードは「すべて承認」、diffは読まない。エラーが出たらコピペするだけで大抵直る。コードは自分の理解を超えて成長する。バグが直らなければ回避策を取るか、消えるまでランダムな変更を頼む。使い捨ての週末プロジェクトには悪くない。何かを見て、何かを言い、何かを実行し、何かをコピペする。それでほとんど動く。
カルパシー自身が「使い捨ての週末プロジェクト」と限定している。本番用の開発手法ではない。雰囲気で動けばいいという割り切りだ。
この割り切りを文章に持ち込むとどうなるか。
学生レポートの現在地
大学教員をやっていると、二種類のAI利用レポートに出会う。
一つは、やけっぱち型。ハルシネーションを起こした架空の参考文献がそのまま載っている。「そんな本は存在しない」と指摘すれば終わる(その学生の半期のすべての単位も)。
もう一つは、巧者型。リサーチ機能を駆使し、テーマを投げるだけでそれらしいレポートを仕上げてくる。文体にAI臭さがあっても、証拠がない。普段の力量との差分を感じても、検証する手段がない(これが、これまでによくあったコピペレポートとの最大の違いだ)。
今はまだ、AI使用前と使用後の差分を任意の学生に適用できる。だが数年後、小中高でAI生成に慣れ親しんだ世代が大学に上がってくる。そのとき、オーサーシップの基準線は消える。「誰が書いたか」という問い自体が意味を失う。
これは学生だけの問題ではない。書くことを仕事にする人間すべてに突きつけられている問いだ。
バイブ・ライティングとは何か
ここで「バイブ」の意味を反転させたい。雰囲気ではなく、魂の震えとしてのバイブだ。
バイブ・ライティングはこういう手順を踏む。
人間がエスキースを出す——基本設計、プロット、アイデアメモ、モデルや定式といった種になる断片だ。
AIが下書きにまとめる。
人間がパラグラフ単位で吟味・修正する。
反復して完成原稿に近づける。
アシスト付き自転車を想像してほしい。漕ぐのは自分だ。坂道で後押しがあるだけ。
書き手のボトルネックは出力にある。書きたいことのイメージはある。言いたいこともある。だが、それをリニアに、ロジカルに、簡潔に書く段階で詰まる。AIはここを解消する。
一方、AIにできないことがある。ファクトチェック。自分の経験との照合。書き味の調整。これらは人間にしかできない。下書きに引きずられて違和感を放置すれば、それはもう自分の文章ではない。
知的所有権と責任の所在
「誰が書いたか」より「誰が責任を持つか」。問うべきはこちらだ。
AIが下書きを生成しても、署名するのは人間だ。署名するなら、一文一文を自分のものにする覚悟がいる。違和感があれば必ず直す。直せないなら、その文章に署名する資格がない。
学生レポートに戻る。問題は「AIを使ったかどうか」ではない。「自分の頭で考えたかどうか」だ。テーマを投げて出てきたものをそのまま提出する。そこに魂はない。バイブコーディングの最悪の適用例だ。
魂を握れ
AIに書かせるのではない。自分が書くためにAIを使う。
学生にも、書き手にも、問われているのは同じことだ。コアにあるエスキースは自分のものか。一文一文に責任を持てるか。
魂を震わせて書け。それがバイブ・ライティングだ。