“献上”

先日、モーリーファンタジーでちいかわのUFOキャッチャーに1400円を吸い取られ、コインを落とす物理ゲーム機に200枚のコインを献上した。

箱に入った景品を見事に獲得する者や、コイン落とし台でジャラジャラとメダルを落下させる者は、いかなる技法を用いているのか。

UFOキャッチャーはテクニックよりも投入金額でアームの筋力が決まる確率機である。


観察と問い

ショッピングモールのゲームセンターで、高齢者がメダルプッシャーに数時間を費やす光景は、何を物語るのか。

彼らが獲得しているのはメダルではない。「投入→蓄積→所有」という生涯のスキーマを、リスクなく再演する権利である。換金不可能であることが、むしろこの体験を純粋化する。理想的な労働として。

小学生男子の大量獲得も同様である。制御不可能な現実への認知的リベンジ。物理法則という絶対的に公平なルールの中で、彼らは初めて主体になる。

若い女性が消費するのは時間ではなく、思考の一時停止権である。

メダルは金銭の代用ではない。それは「能力」「時間」「承認」──手に入らないものの隣接指標として機能する。

では、なぜ家庭ではなく、この匿名的な公共空間でなければならないのか。


サード・プレイスとしてのゲームセンター

彼らが求めているのは、単なるゲームのプレイ権ではなく、「他者の気配を感じながら、誰からも干渉されず、かつ自分の成果が潜在的に承認される物理的空間」である。

これは社会学における「サード・プレイス(第3の場所)」の定義において、カフェやバーが担ってきた役割を、より匿名性を高めた形で代替していると言える。


換金不可能性の意味──ノンアルコール理論

換金できないコインはノンアルコールビールであるか。

なぜ我々は「本物に劣る疑似体験」と見做してしまうのか。

換金できないメダルは、ノンアルコールビールに似ている。両者は「リスク成分を除去し、体験の形式だけを保存する」技術である。酩酊なき飲酒、損失なき獲得。しかし、ここに問いが生まれる──それは劣化した代替品であるか。

ノンアルを求める者が欲するのは、居酒屋で乾杯する儀式、グラスを傾ける所作、その場に「いる」ことである。アルコールは、実は本質ではなかった。

メダルゲームも同様ではないか。高齢者が求めるのは金銭ではなく労働スキーマの再演、小学生が求めるのは富ではなく制御感の可視化である。

ならば換金不可能性は、欠陥ではなく設計ではないか。彼らにとってメダルは、ノンアルが下戸にとってそうであるように、より優れた選択肢かもしれない。


「暇つぶし」という語の暴力性

「暇つぶし」という言葉は、あまりに中立的すぎて何も語らない。

高齢者がつぶしているのは、労働も蓄積も求められない存在論的空白である。小学生男子がつぶしているのは、主体性の不在がもたらす無力感という心理的負債である。若い女性がつぶしているのは、過剰な認知負荷による思考の飽和状態である。

つまり「暇」の質的内実は、各々が抱える社会構造的欠損を逆照射している。

役割の喪失、権力的従属、感情労働の過多──メダルプッシャーは、これらの構造が生み出す空白を、個人が自費で補填する装置として機能しているのではないか。

ならば問うべきは、それが搾取であるか、セーフティネットであるか。

しかし「暇つぶし」という言葉でこの問いを不可視化することだけは、避けなければならない。


追記: この3連休は秋を実感する風景を目にし、ずっと行きたかった書店を訪れ、先週食べそこねた店に改めて足を運び、良い時間を過ごした。