ビッグTechによるソーシャルメディアの正体は何だろうか?

答えは単純だ。広告産業である。投稿すること、他のユーザーと交流すること——それらすべてが、この広告機構を回す燃料になっている。ユーザーの行動履歴は裏側で学習され、滞在時間を最大化するようサービスは設計されている。つまり、既存のプラットフォームを使うということは、自らが意識的にも無意識的にも「広告人間」に仕立てられているということなのかもしれない。

では、Bluesky Socialが「広告でプラットフォームを運用しない」と宣言しているのは、どういうことか。

業界の常識から見れば、これは相当にチャレンジングな経営理念に映る。現在の運営資金は主に投資家からの提供に依存しており、いずれかの形で利益を還元しなければならない構造がある。この転換を果たせなければ、スタートアップのジレンマに陥る可能性は否定できないだろう。

Xやインスタグラムの課金の正体

既存のXやInstagramで、なぜコアユーザーが課金するのか。それは「自分の商売の役に立つから」という理由に尽きるように思える。課金によってプラットフォームが収集したデータの一部利用が可能になり、自分のアカウントへのエンゲージメントを高められ、販促に繋げられる。商業的動機が課金を駆動している。

一方で、Discordにはなぜ課金してしまうのだろうか。

Discordはコミュニティとユーザーを繋ぐインフラとして機能している。SNSが多対多のメディアであるのに対し、Discordはメッセージングアプリ的側面が強く、パーソナルメディアとしての性格を持つ。課金によって得られるのはUXの向上やメンバー間のステータスの可視化——「もっと楽しく」「他より目立てる」「コミュニティに貢献できる」という社会的な欲求への訴求だ。ゲーミフィケーション的なポップなデザインで、人間のサガをくすぐってくる。

持続可能なサービスはサブスク制へ向かう

「まとも」で「持続可能」を模索しているサービスは、サブスクリプション制を採用している傾向がある。SNSがなぜサブスクにしにくいのか——そこに、この産業構造の根深さが見える。

既存のBlueskyユーザーは、「ここを"家"とする」という決心と、課金による貢献に備える必要があるのかもしれない。

Twitter的UIは会話向けなのか?

再びBlueskyについての「不都合な事実」に目を向けてみよう。

Twitter likeなUIは、そもそも「会話向け」ではないのではないか?

Blueskyは「会話」を広義に捉えているフシがある。そこでは、さまざまなインタラクション全体が「会話」とみなされる。Public Conversationという概念だ。

アルゴリズムが奪ったもの、規模の問題

これはBlueskyのUIが優れているという話ではなく、ユーザー規模の問題として捉えた方がいいように思える。

時系列表示ではなくアルゴリズムによるサジェストが行われるようになったのは、規模が大きくなると時系列表示ではユーザーがサイトにアクセスしたときに「オモシロ」を得られず、滞在時間が短くなるからだ。翻って考えれば、アルゴリズムで自分の行動履歴や嗜好にマッチするものが流れ続ける方がユーザーにとってはオモシロイ。

しかし、それは「受動的体験」に行動が偏ってしまい、「会話」は生まれなくなるのではないだろうか。

Xであれば、50億フォロワーいるユーザーなら非対称な発信はできても会話はままならない。フォロワー98のユーザーなら素敵な投稿をしてもいいねすらつかない世界になっている。残された方法は、スレッドが盛り上がっていそうなところに出向いて、無関係な実存をかけたクソリプを投稿することくらいだ。

Blueskyの美点——「会話を取り戻している感覚」

Blueskyの理念のひとつに「会話を取り戻す」がある。

モデレーションが杓子定規なのは懸念されるが、Blueskyに来てから確実に「会話を取り戻している感覚」が私の中にはある。これは規模の問題でもあり、UIの問題でもあり、そしてプラットフォームの思想の問題でもあるのだろう。

「まろやかなミーム」という境地

刺激的な話はなにもない。この場所が明日もあればいい。

永遠の春は悪夢」だ。SNSが「親しさ」だけで生き残れるわけではない。しかし、「まろやかなミーム」——これはBlueskyがたどり着いたひとつの境地なのかもしれない。

果たして、この実験は成功するだろうか?

(追記)

会話の最小単位——「いいね」という念仏

上記を投稿したあとに、ひとつの発見があった。すなわち、

SNS上の「広義の会話」の最小単位は何だろうか。おそらく、投稿にいいねがつくこと——それ自体がすでに会話なのだ。

リプライやリポストだけが会話ではない。誰かが自分の投稿を見て、小さなハートを押す。その一瞬の接触が、すでにPublic Conversationの一部として成立している。

そう考えると、私たちは毎日ブルスコで「会話」をしている。

これはある意味で、SNSにおける「浄土宗」なのではないだろうか。

南無阿弥陀仏と唱えるだけで救われる——難行ではなく易行。いいねを押すだけで会話に参加できる。その敷居の低さこそが、Blueskyが「会話を取り戻す」と言うときの、ひとつの本質なのかもしれない。なむなむ。


参照文献

ショシャナ・ズボフ『監視資本主義:人類の未来を賭けた闘い』東洋経済新報社、2021年