何のクリエイター?
「大きくなったら何になりたい?」と聞かれた子どもが「クリエイターになりたい」と答えたとする。その答えは、おそらく大人を困惑させる。「何のクリエイター?」と聞き返さざるを得ない。
「ケーキ職人になりたい」「寿司職人になりたい」であれば、私たちはその言葉が何らかの職業を含意していることを理解する。だが「クリエイター」は違う。「作家」に対する「作者」がそうであるように、限定修飾をつけなければ何を指すのかわからない言葉なのだ。
百科事典と肩書きの機能
佐村河内守がゴーストライター問題で話題になったとき、彼のWikipediaの記述が一瞬「広島県出身の作曲家」から「広島県出身の人物」に変わった。
私はこれに遭遇しておもわず笑ってしまったのだが、これは彼の才能の虚偽を嘲笑したからではない。百科事典という意味空間の構造が可視化されたからだ。
百科事典に記載されるには、無数の人類の中で限られた者にだけ与えられる noteworthy(特筆すべき)な肩書きが必要になる。画家、作曲家、といった肩書きが。その肩書きが消失しつつも削除には至らないとき、プレースホルダーとして「人物」が与えられる。すると「広島県出身の人物」は無数の該当者を指してしまい、当該人物が何者かを示し得なくなる。
「クリエイター」もまた、同じ構造を持つ。それは「人物」と同様、誰でも該当しうるがゆえに、誰をも特定しない言葉なのである。
境界のない領域
「何かを作ったらクリエイターと言える」と仮定してみよう。すると、プロとアマの境界がぼやけた状態になる。「作品を作ったら」と言い換えても、「作品とは何か」という問いが残り、やはり同じことが起きる。
この曖昧さの奥には、生計を立てること(経済)と表現したいこと(自己実現)の折り合いの難しさがある。写真家の鈴木心が「写真のプロと名乗る人たちがやたら多い」と語っていたのも、おそらくこの問題だ。
だが問題の核心は、プロかアマかという二項対立にはない。むしろ、自分が何者であるかを示す座標軸そのものが存在しないことにある。
座標を手に入れる
「とりあえず何か作れ」というアドバイスがある。一見もっともだが、これは翼のない者に「とりあえず飛べ」と言うに等しい。
座標なき者に必要なのは、まず座標系を知ることだ。歴史の中で誰が何を作ってきたのか。同時代のネットワークの中で、どこに隙間があり、どこに対話の相手がいるのか。
具体的には、こうした問いが助けになるだろう。
誰の仕事に心が動くか。 それはなぜか?
その人は、誰の影響を受けているか? 系譜を辿る。
自分はその系譜のどこに立てるか? あるいは、どこに立ちたいか?
これは模倣から始める、というよりも、自分が立つ場所を知るために、地図を手に入れることを意味する。
ヴォイドを抜けて
「クリエイター」という言葉は、職業を含意しない。だから「クリエイターになりたい」という宣言は、そのままでは空虚なまま宙に浮く。
その空虚さを抜け出すには、歴史とネットワークの中で自分がどこに立ち、何を差し出すのかを見定める必要がある。それは「とりあえず何か作れ」では解決しない。だが、地図を手に入れ、座標を定めることで、ようやく最初の一歩を踏み出せる。
クリエイターは、ヴォイド(空虚)に存在するのではない。ヴォイドを抜けた先に、ようやく存在し始めるのだ。
追記|欲望の名前
だが、ここまで書いてきて、まだ触れていない問いがある。なぜ「クリエイター」という空虚な語が、それでも繰り返し選ばれるのか。そして、なぜこの話題はネット上で定期的に蒸し返され、批判と優しさが奇妙に同居するのか。
「クリエイター」が選ばれるのは、それが何も指定しないからこそだ。「作曲家になりたい」と言えば、作曲の技術と歴史に向き合う覚悟を問われる。だが「クリエイターになりたい」は、その問いを一時的に回避しながら、「創作によって承認される人生」への憧れだけを純粋に表明できる。つまり「クリエイター」は職業の名前ではなく、欲望の名前なのだ。
だから「何のクリエイター?」という問いは、発した本人にとってはしばしば的外れに響く。彼らが求めているのは、まだ具体的な座標ではない。座標を定める前の、「創作で生きること」それ自体への希求なのだから。
この欲望は、プラットフォームが変わっても再生産される。ブログからYouTubeへ、YouTubeからTikTokへ。参入障壁が下がるたびに、「何者でもないが、何者かになりたい」という実存的不安が新たな世代に引き継がれる。だから議論は終わらない。同じ壁に、異なる人々が繰り返しぶつかるからだ。
そして、批判する者が同時に優しさを見せるのは、その回避の身振りに覚えがあるからだろう。多くの表現者は「何者でもなかった時期」を持つ。その時期を全否定することは、自分自身の出発点を否定することになる。「クリエイターになりたい」という宣言は、まだ何も成していない段階で欲望を公に晒すことであり、失敗の可能性を引き受ける脆弱な身振りでもある。その脆さに対して、人は完全には冷酷になれない。
ヴォイドを抜けた者もまた、かつてはヴォイドの中にいた。だからこそ、まだそこにいる者に向けて、地図の存在を伝えようとするのかもしれない。
追々記|藁人形の効用
ところで、この記事で私は「とりあえず何か作れ」というアドバイスを批判した。だが、ふと気づく。このアドバイスを実際に誰かから受けたことがあっただろうか。
「とりあえず何か作れ」は、実在の発話というより、「そういうことを言いそうな人」という像として流通しているのではないか。「京都のいけずなおばちゃん」に実際に会った人はそう多くないが、「そういう人がいる」という物語は広く共有されている。それと同じ構造だ。
だとすれば、この藁人形は何のために存在するのか。
おそらく、座標なき不安を言語化するための補助線として機能している。「とりあえず作れ」という無理解な声を想定することで、「それでは解決しない」という自分の実感に輪郭を与えることができる。批判の対象があってはじめて、問題の所在を指し示せる。
私自身、この記事でその藁人形を使った。そしてそれは、おそらく有効だった。藁人形は、燃やすためだけでなく、思考の足場として機能することがある。ただし、それが藁人形であることは、どこかで認めておいたほうがいいのかもしれない。