はじめに:SNSは「毛繕い」の場なのか?

みなさんは普段、どんなふうにSNSを使っていますか?

友達の投稿に「いいね」を押したり、面白い動画をシェアしたり、ちょっとした日常をつぶやいたり。こうした行為は、サルが仲間の毛についた虫を取ってあげる「毛繕い(グルーミング)」に似ていると言われることがあります。お互いに気持ちよくなって、仲間意識を確認し合う。SNSの多くは、そんな閉じた関係性の場になっています。

あるいは、有名人やインフルエンサーの発信を一方的に受け取るだけの場所。上から下へ情報が流れる、テレビの延長のような空間。

でも、SNSにはもっと別の可能性があるんじゃないか?

この記事では、分散型SNS「Bluesky」とその技術基盤「ATプロトコル」が作り出す「ATmosphere」という空間を、新しい学問的視点から捉える試みについて紹介します。


Blueskyは何が違うのか?

Twitter(現X)やInstagram、TikTokといった従来のSNSは、すべて一つの会社がサーバーを管理しています。これを「集中型」と呼びます。あなたのアカウントも投稿データも、すべてその会社のものです。会社がルールを変えれば従うしかないし、アカウントを凍結されたらすべてを失います。

Blueskyは違います。「ATプロトコル」という技術を使って、「分散型」の仕組みを実現しています。

ポイントは3つ:

  • あなたのIDはあなたのもの:DID(分散型識別子)という技術で、アカウントはどの会社にも依存しません

  • データを持って引っ越せる:別のサーバーに移っても、フォロワーもデータもそのまま持っていけます

  • 見え方をカスタマイズできる:どの投稿を見るか(Feed)、どんなラベルを付けるか(Labeler)を自分で選べます

この仕組み全体——Blueskyというアプリだけでなく、ATプロトコルを使ったすべてのサービスやコミュニティを含めて——を「ATmosphere」と呼びます。文字通り「AT(プロトコル)の大気圏」です。


「公共圏」としてのATmosphere

18世紀のヨーロッパには、カフェやサロンで市民が自由に議論を交わす「公共圏」がありました。身分や立場を超えて、理性的な対話によって社会のあり方を考える場所。ドイツの哲学者ハーバーマスは、これを民主主義の基盤として重視しました。

ATmosphereには、この公共圏に近い可能性があります。

  • 特定の会社にコントロールされない

  • 自分の発言やデータの所有権を持てる

  • 異なる価値観の人とも、選択的につながれる

もちろん、理想通りにはいきません。でも、技術的な設計として「対等な対話の場」を目指している点で、従来のSNSとは根本的に違うのです。


学問として捉えると、何になる?

ここで一つの疑問が生まれます。ATmosphereを研究対象として捉えたとき、それは「何学」になるのでしょうか?

  • 工学? → プロトコルの設計や実装は工学の領域

  • 情報学? → 情報の流れや処理を扱う

  • 社会学? → コミュニティや人間関係を分析する

  • 言語学? → そこで交わされるコミュニケーションを研究する

答えは「どれでもあり、どれでもない」です。

ATmosphereは複数の層から成り立っています:

第4層:社会的現象(コミュニティ、言説、規範)
第3層:ユーザー行動(投稿、フォロー、モデレーション)
第2層:アプリケーション(Bluesky、各種クライアント、Feed)
第1層:プロトコル(ATプロトコル、DID)
第0層:インフラ(サーバー、ネットワーク)

各層は別々の学問が扱う領域です。だから、ATmosphereは単一の「〇〇学」ではなく、複数の学問が交差する研究対象なのです。

「インターネット研究(Internet Studies)」が「インターネット学」という単一の学問にならなかったように、ATmosphereも「ATmosphere研究(ATmosphere Studies)」という学際的な領域として捉えるのが適切でしょう。


本質は「分散ネットワーク」にある

では、ATmosphereを研究する上で、最も重要な特徴は何でしょうか?

それは分散ネットワークであること。

Mastodonも「分散型」と呼ばれることがありますが、実は「連合型」です。あなたのアカウントは特定のサーバーに紐づいていて、そのサーバーが閉鎖したらアカウントは消えます。

ATmosphereでは、DIDによってあなたのIDは特定のサーバーに依存しません。サーバーを引っ越しても、あなたはあなたのまま。これが本当の意味での「分散」です。


「見えている世界」と「実際の世界」のズレ

ここからが本題です。

人間の脳には約860億個の神経細胞(ニューロン)があり、それらがネットワークを作っています。このネットワークの活動が、私たちの心——思考や感情や記憶——を生み出しています。

でも、私たちは自分の脳のネットワーク構造を直接見ることはできません。「自分がどう考えているか」という主観的な体験と、「脳で何が起きているか」という客観的な事実は、別のものです。

SNSでも同じことが言えます。

  • 実際のネットワーク:誰が誰をフォローしているか、誰が誰に返信しているか(データとして測定可能)

  • 認知されたネットワーク:自分がどんな人とつながっていると感じているか、誰が影響力を持っていると思っているか(主観的な認識)

この二つは、しばしば一致しません。

心理学や組織研究の分野では、これを**「Network Perception(ネットワーク知覚)」**と呼んで研究してきました。そして、驚くべき知見が得られています:

  • 人は自分の人気度や中心性を正確に把握できない

  • むしろ、中心的な位置にいる人ほど、自分の位置を大きく誤認する

  • 全体の変化の方向(人気が上がっているか下がっているか)は感じ取れるが、構造全体は見えない


ATmosphereでNetwork Perceptionを研究する意義

では、なぜATmosphereでこれを研究する価値があるのでしょうか?

従来のSNS(Twitter/Xなど)では、ネットワークのデータを取得することが難しくなっています。APIの制限、データへのアクセス制限、プラットフォームのブラックボックス化。研究者がデータを得るのは年々困難になっています。

ATmosphereは違います。オープンなプロトコルなので、原理的に誰でもネットワーク構造を観測できます。

さらに、ATmosphere固有の構造が新しい研究の問いを生み出します:

  • Feedの選択は認知をどう変えるか?

    • 自分で選んだFeed(情報源)だけを見ていると、ネットワーク全体の認知は歪むのか?

  • Labelerの選択は他者の見え方をどう変えるか?

    • 誰が「スパム」で誰が「信頼できる」かを自分で選べるとき、ネットワークの認知はどうなるのか?

  • サーバー移行は認知にどう影響するか?

    • 引っ越し可能な分散型システムでは、「自分のコミュニティ」の認識はより柔軟になるのか、それとも混乱するのか?

  • 分散型アイデンティティは自己認知を変えるか?

    • 「自分のIDは自分のもの」という意識は、ネットワーク上での自己の位置の認知に影響するのか?

これらは、集中型プラットフォームでは問えない、ATmosphere固有の問いです。


「Network Perception in ATmosphere」という研究領域

以上の議論を踏まえて、私たちは一つの研究領域を提案します:

Network Perception in ATmosphere (NPA)

日本語では「ATmosphereにおけるネットワーク知覚研究」。

この研究領域は、以下の学問からの貢献を必要とします:

  • ネットワーク科学:グラフ構造の定量的分析

  • 認知心理学:知覚と認知のメカニズム

  • 社会学:コミュニティ形成と社会関係

  • 情報学:分散システムの設計と影響

  • 言語学:コミュニケーションと意味形成

一つの学問だけでは答えられない。だからこそ、学際的な協働が必要なのです。


一匹狼も研究者も参加できる場

最後に、一つ大事なことを。

学術研究というと、大学の先生たちが論文を書いて学会で発表する——そんなイメージがあるかもしれません。でも、ATmosphere研究はもっと開かれた形になりうると考えています。

技術者(エンジニア)の人は、コードを書いてツールを作ることで貢献できます。グラフを可視化するツール、データを収集するボット、分析用のライブラリ。「手を動かして作る」ことが直接的な貢献になります。

研究者は、そのデータを使って理論を構築できます。なぜこのような乖離が生じるのか、どんな条件で認知は正確になるのか、歴史的・理論的な文脈に位置づける。

そして、一匹狼タイプの人——組織に属さず、自分のペースで活動したい人——も参加できます。自分の観測結果を発信するだけで、大気に何かを放出するように、全体に貢献することになります。直接的な協働を強制されない。でも、存在するだけで「圏」の一部になる。

ATmosphereという名前には、そんな意味も込められているのかもしれません。


おわりに:これからの課題

「Network Perception in ATmosphere」は、まだ名前をつけたばかりの段階です。これから必要なのは:

  • パイロット研究:まず小規模に、実際のグラフ構造と認知の乖離を測定してみる

  • 方法論の確立:どうやって「認知されたネットワーク」を測定するか

  • 知見の蓄積:発見を記録し、共有し、批判的に検討する

  • コミュニティ形成:興味を持つ人が集まり、議論できる場を作る

このブログ記事も、その第一歩です。

ATmosphereという新しい空間で、私たちは何を見て、何を見落としているのか。自分が思っている「つながり」と、実際の「つながり」はどれくらい違うのか。

その問いに答えるための旅が、今、始まります。