2025年12月末のエクソダスを目の当たりにして、Bluesky先住民たちの投稿行動をみるにつけ、浮かんだイデオロギーがある。
私はそれを中村(2020)のことばを借りて、「ホンモノ・ニセモノ・イデオロギー」と呼びたい。
オンライン・コミュニティには、「本物」と「偽物」を峻別しようとする強い衝動がある。そして「本物を装う偽物」に対しては、驚くほど苛烈な態度がとられる。「にわか」への嘲笑。「エアプ」の告発。「古参アピール」への警戒。これらはすべて、同じイデオロギーの表出だ。
2024年11月の第一波エクソダス(主に英語圏)、そして今回の第二波(Grokによる直接画像編集ボタン設置に対する反発による)。私は招待制時代からBlueskyにいた「先住民」の一人として、この現象を間近で観察してきた。移住者たちが増えるたびに、タイムラインには微妙な緊張が走る。「この人たちは本当にBlueskyの理念を理解しているのか」「単なる避難民なのか、真の移住者なのか」——言葉にされないまま、そうした判定が行われている。
認知心理学的に見れば、「本物」は典型的なプロトタイプ・カテゴリだ。中心的事例から周辺へのグラデーションがあり、境界は本来ファジーである。ところがオンラインコミュニティでは、これを古典的カテゴリ——必要十分条件による二値判定——として扱おうとする傾向がある。
この認知的ミスマッチが、判定をめぐる紛争を構造的に生み出す。
「本物のBlueskyユーザーとは何か」という問いに、万人が同意する回答はない。招待制時代からの在籍か。ATプロトコルへの理解か。分散型SNSへのコミットメントか。あるいは単に、特定の政治的立場からの離脱か。
このイデオロギーには、社会的機能がある。
まず、共同体の境界維持装置として機能する。「本物」を判定することは、参入障壁を設定し、内集団の結束を強化し、文化資本の価値を維持する行為だ。「偽物」という共通の敵が、「本物」たちを結びつける。
Blueskyへの移住者は、X(旧Twitter)からの離脱という「選択」を経ている。その選択の正当性を維持する動機が強いからこそ、新参者への視線は厳しくなる。「私たちは正しい理由でここに来た。あなたたちはどうなのか」と。
しかし、この二項対立には危うさもある。
純粋性の追求は、際限なくエスカレートする。招待制時代からいたことが「本物」の証だったとしても、その中でさらに「最初の1000人」「βテスター」「JayやWhyからの直接招待」といった階層が生まれうる。どこまで遡っても「より本物」が存在しうるという構造は、共同体を内部から蝕む。
また、「本物/偽物」の枠組みは、しばしば排除の論理と結びつく。新参者を「偽物」として周縁化することは、コミュニティの多様性と成長を阻害する。
私が提案したいのは、問いの転換だ。
「本物か偽物か」ではなく、「何を共有しているか」。
共同体の定義を「属性」から「実践」へ移すこと。いつ来たかではなく、何をしているか。どんな理由で来たかではなく、今ここで何を築こうとしているか。
Wenger の実践共同体論が示すように、成員性は参加を通じて形成される。判定されるものではなく、実践されるものだ。
もちろん、これは理想論かもしれない。ホンモノ・ニセモノ・イデオロギーは人間の認知に深く根ざしており、意志の力だけで超克できるものではない。
それでも、このイデオロギーを自覚することには意味があると思う。私たちがなぜ「本物」を求め、「偽物」を排除しようとするのか。その衝動の根源を見つめることで、より開かれた共同体のかたちを構想できるかもしれない。
2025年12月。また新しい人たちがやってきた。
彼らが「本物」かどうかを私は問わない。
問うべきは、私たちがこれから一緒に何をつくるか、だ。