小学生の頃、サンテレビの再放送で機動戦士Zガンダムを見た。いまフォローイングフィードを読むたびにヒリヒリする。この質感を最初に覚えたのは、あの戦闘シーンの会話だ。
パイロットたちがやっているのは、実質コックピットでのひとりごとだ。ニュータイプ能力で機体や宇宙空間を貫通して相手と話しているテイになっているが、頭の中に響いている幻覚ともとれる。彼らの視界にあるのは自分の計器とモニターだけだからな。
それでも会話に見える。カット割りのせいだ。両方の顔が交互に映り、発話が時間の上で交互に並ぶ。だから対話が成立して見えるのは視聴者の側だけになる。当人たちは接触していない。対話を作っているのは、画面の外にいる者の視点だ。
「EGOとEGOがぶつかり合う」というガンダムのフレーズも、EGOという語そのものも、当時はわからなかった。いまならわかる。機械的に並べられた投稿を見て、わたしたちはEGOとEGOがぶつかっていると思う。仕組みはカット割りと同じだ。並んだものを外から見ているから、ぶつかって見える。書いた本人はそれぞれ自分の一台に座っている。
運転席の雑談も似ている。目に映ったものについて機嫌よく話すのだが、助手席の人間はすぐ隣にいながら返事をせず、スマホを眺めている。
だが運転席とフィードは一点で違う。助手席の沈黙は特定の一人の沈黙だ。誰が黙っているかがわかる。だから「聞いてるか」と言えば済む。フィードの沈黙には主語がない。空気は似ているが、後者は解けない。
SNSのフラストレーションは、EGOを中心主題に選んだうえで、本当に返信して欲しい人から返信が来ないことで生じる。ただし、その人が誰なのかは不定だ。
不定なのは、フィードに宛先を作る手続きがないからだ。文面は誰にも向いていないが、書いている側の頭の中では相手が一人に絞られている。この非対称が残る。手紙なら冒頭に宛名を書く。会話なら顔を向ける。フィードにはその工程が一つもない。相手は言葉にならないまま、待つ状態だけが立つ。
厄介なのは、不定が事後にしか埋まらないことだ。返信が来て初めて、これが欲しかったのだとわかる。来なければ空欄は空欄のまま残り、何が足りなかったのかも決まらない。埋まらないうえに、何が埋まらなかったのかもわからない。
独り言を言い続けるのは精神衛生に良くない。だが悪いのは独り言ではないだろう。返事が来る形式の中で独り言を言い続けるのが悪い。日記なら返事を期待しないから消耗しない。フィードは返事が来る形をしていながら、来る保証がない。形式と実態がずれている場所に置かれ続ける。それが消耗の中身だ。