理想論が刺さる理由
「フォロー外し=敵対じゃない」という投稿が共感を集めていた。刺さるのは、現実がそうなっていないからだ。
日本のSNSでフォローは購読ではなく関係性の可視化になっている。矢印が承認の方向を示すから、外す=縁切りと読まれる。これはTwitter型UIが生んだ文法だ。同じUIを使う限り、言説で理想を語っても同じ歴史が繰り返される。
UIの比較——三つの型
Twitter型は非対称な有向グラフだ。「フォロバしない=格下扱い」「外された=切られた」が可視化される。
Facebook/mixi型は対称だが、繋がるには申請と承認が要る分、入口がシビアだ。ただし切られても気づきにくいから、解消の痛みは薄い。
どちらも関係性が丸見えなのが問題だ。
第三の道は、フォロー関係の可視性自体を下げること。誰が誰をフォローしているか、フォロワー数がいくつか、これを見えなくするだけで文法は変わる。しかし、開発チームはそれをしない。以前提案したことがある。非対称な有向グラフが人間の社会脳を刺激して、フィードを滞らせないことを知っているからだろうな。
nostrという例外
nostrは面白い。フォロー・フォロワーの概念はあるが、反映が気まぐれで数字に信頼性がない。壊れているからこそFF概念が戯画化され、誰も真剣に受け取らない。海賊ラジオ的な痛快さがある。
「フォロバ100%」という文法
Blueskyで見かける「フォロバ100%」も面白い。これは「まずフォローされる」が前提になっている。自分からは動かず、来たら返す。待ちの姿勢がX文法そのものだ。
「自由にやればいい」という逃げ
こういう話をすると「自由にやればいい」という相対化が出てくる。無責任だ。領収書に日記は書けない。プラットフォームが呈示する文法に、意識的にせよ無意識的にせよ、わたしたちは振り回されている。自由の幅はUIが決めている。
言説の限界と実践
とはいえ、わたしはこの文法に愛想が尽きた。言説でBlueskyを活性化させるには、自分からフォローを増やすしかない。UIが変わらないなら、使い方で文化を作るしかないからな。
UIが変わらないなら、自分の使い方を変えるしかない。フォロバを期待せず、自分から能動的にフォローを広げていくことだ。片思いでいい。承認を待つ姿勢が文法に飲み込まれる原因だ。先に動く人間が増えれば、文化は変わる。