ふしぎなこと

ネットだけでつながっているグループは、何年つづけても、だんだん元気がなくなっていく。話すことが同じことのくり返しになって、よどんだ水たまりみたいになる。

ところが、一度でも実際に会ったことのある友だちはちがう。ネットでのやりとりが止まっても、20年たってもつながりが消えない。

どうしてこんな差が出るのだろうか。

友だちは「どこに保存されているか」

ゲームのセーブデータで考えるとわかりやすい。

ネットだけの友だちは、そのアプリやゲームの中にセーブされている友だちだ。アプリがサービス終了したら、データごと消える。アプリがつまらなくなったら、友だち関係もいっしょにしぼむ。

実際に会ったことのある友だちは、自分の中にセーブされた友だちだ。アプリが消えても関係は消えない。転校した友だちと、手紙でもLINEでも年賀状でも、手段を変えてつながりつづけられるのと同じだ。手段はなんでもいい。友だちそのものが自分の中に残っているからだ。

キシリトールの友だち

ネットには、何年やりとりしても「この人が本当は何者なのか、ぜんぜんわからない」という人がいる。名前も顔も学校も知らない。でも毎日返事をくれて、話していて楽しい。

これはキシリトールのガムに似ている。甘いのに、栄養にはならない。楽しさは本物だ。だが、その人を自分の中にセーブすることは、いつまでたってもできない。相手が「自分が何者か」を見せてくれないからだ。

「会ってもいい」のひとことの力

では、ネットの友だちが本物になる瞬間はいつか。

「機会があったら会おう」と本気で言えるかどうか、ここで決まる。実際に会わなくてもいい。「会ってもいい」と思えるかどうかが大事なのだ。

ネットの中だけなら、いやになったらだまって消えられる。だが実際に会うとなると、消えられない。本当の自分を見せることになる。だから「会ってもいい」は、口だけでは言えない重いひとことだ。このひとことが出た瞬間、それまでのネットでのやりとり全部が「本気の相手とのやりとりだったんだ」に変わる。信用が一気にふくらむ。

もちろん、会ってがっかりされる危険もある。だが、その危険を引き受けるからこそ、このひとことには力があるのだ。

だから、順番はこうだ

ネットのすごいところは、探せることにある。「同じゲームが好きで、同じ本が好きで、同じ部活の人」なんて、学校や近所ではまず見つからない。ネットなら世界中から見つかる。

だが、ネットは友だちを保存するのが下手だ。保存が得意なのは、実際に会うことのほうにある。

だから順番はこうなる。ネットで探して、「会ってもいい」と思える人に出会えたら、実際に会って、自分の中にセーブする。そこまでできたら、もうアプリが消えても大丈夫だ。

ネットは友だちを探す道具であって、友だちをしまっておく場所ではない。

まだわからないこと

いつ「会おう」と言うのがいいのだろうか。早すぎても、おそすぎてもうまくいかない気がする。

それから、会うことの何が友だちを「本物」に変えるのだろうか。同じ場所にいることか。顔を見ることか。それとも、にげられない状態をいっしょに引き受けることか。

これはまだ、わたしにもわからない。